イングロリアス・バスターズ

 僕はマイケル・ジャクソンが大好きだ。つい先日、歴史的な引退コンサートの直前に急死して話題になったから言うわけではない。むしろ、このタイミングだから告白しても良いと思ったのだ。随分前からマイケルのキーホルダーを付けているし(コレも数年前に友人から「マイケル、好きだったよね?」と貰ったモノ。普通、「マイケル、好きだったよね?」と何気に言われないし、グッズをプレゼントされたりしないと思う)それに、帰宅途中の車内では大音量で『ビリー・ジーン』が流れたりしている。ハンドルに置かれた手は常にビートを刻み、勿論アノ曲の締めは「Who's bad?」!と一緒に口ずさみもする。当たり前だ。しかし、信号待ちで停まる度にいちいち音量を下げないといけないので面倒臭い。隣に並んだ車から「なんで、それ!?」と言われている気がしてしょうがないのだ。一時期、一回一回音量を上げ下げしなければいけない世間に腹が立ち、開き直って常に爆音で聴いていたのだが、そんなある日の仕事中(因みに僕は仕事中はマイケルは聴かない)、信号待ちで並んだ隣の車から『ロマンチックが止まらない』がモレて聴こえてきた。しかもその運転手は「ふっ!ふっ!さりげ〜なく〜ぅ」のコーラスを歌っているように見えたのだ。いや、歌っていただろう。それを見て思わず「なんで、それ!?」と口に出して言った時、何故だか自分のそれと重なり車内のCDチェンジャーからマイケルを取り出したのだった。
 僕は72年生まれなのだけど、きっと僕ら世代ならみんな1度はムーンウォークをやってみたことだろう。勿論、僕も得意だった。で、つい先日「まだできるかな?」と思いやってみたら、できた。しかも、上手くできた。今日観てきたマイケル・ジャクソンの映画『THIS IS IT』で1番衝撃を受けたのは、僕が永年「随分、良いじゃん」と思ってやってきたのはただの“後ろ歩き”だったということ。マイケルの音楽やパフォーマンスの全てが“マイケル・ジャクソン”という既に確立された1つの“ジャンル”だという事と同様、クエンティン・タランティーノの映画は、同じく独立して確立している1つの“ジャンル”だと思うのだ。・・・・要はコレが言いたかったわけで・・・・。だとすればこの長い前置きは要らなかったのではないか?とも思う・・・・要らないだろう。しかし、僕のマイケルに対する想いはDeleteボタン1つで削除出来るものでも無いのだ。“映画おたく”が“映画おたく”の為に創ったと云われるデビュー作『レザボア・ドッグス』から、大ヒット作『パルプ・フィクション』、そしてマニアックな映画ファンの間ではこれから更に評価が高まるであろう『フロム・ダスク・ティル・ドーン』、更には、彼だから作れた究極の映画愛に満ちた『グラインド・ハウス』に至るまで、彼の映画は常に観客の目線で描かれていて、言わば“映画ファン代表”といった作品を送り出してきたとも言えるだろう。2D映像としては既に行き着くところまで行ってしまった感のある特撮技術を駆使し、アメコミ映画をどれだけ現実的にリアルに描くか?が競われている中で、タランティーノの映画はいつだって徹底して漫画チックに描かれる。そして当然、今回の『イングロリアス・バスターズ』にしても歴史的事実を基にした物語が徹底して漫画っぽく描かれているのだ(特にブラッド・ピットはやり過ぎな程に漫画チック)。“映画”という表現方法が究極の現実逃避を目的としたエンターテインメントであるならば、“漫画”を“現実”として描くのも1つの方法であると同時に、真逆の発想で“現実”を“漫画っぽく”且つ“実写”で描く、というのも1つの方法なのだろう。今のところこれをやっている人は他にいないのではないか。
 “タランティーノ映画”という1つのジャンルを確立した彼は、間違いなく映画史に残る巨匠の1人となるだろう(しかし、かと言ってテレンス・マリックのように俳優陣がこぞって「ノー・ギャラでも!」と出演を懇願するわけでも無いのだが・・・・)。きっと彼は僕らと同じ1人の“映画ファン”であり、と同時に孤高の人でもある唯一の存在なのだと思う。彼もマイケル同様、死んで伝説になる人ではなく、生きている間に既に伝説であり、居なくなった時には世の中が心底その欠けた存在の大きさを知るのだろう。とにかく“タランティーノ映画”という理由だけで、劇場で観る価値のある偉大な1本なのである。

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