ラブリーボーン

 '77年の『スター・ウォーズ』、'83年『ジェダイの復讐』、そして'93年『ジュラシック・パーク』に'99年の『マトリックス』と、おおよそ10年毎を節目に格段と進化してきた映像技術も、'09年『アバター』の登場により2D映画としては『2012』で、行き着くところまで行ってしまったのではないだろうか? かつて「映像化不可能と云われてきたあの原作が遂に完全映画化!」と、決めゼリフのように使われてきた宣伝文句も今となっては陳腐な響きを持ってしまうくらいにその技術は進化し、そもそも“映像化不可能”という言葉自体が過去のものになっている。そんな中でこの『ラブリーボーン』に関しては、正に“映画化不可能”な原作だと思っていた。それは映像技術とかそういうよく分からない専門的な問題ではなく、単に「この世界観をどうやって映像化するのだろう?」という素人的な疑問からで、読者の想像力に委ねられた部分の大きいこの原作を映像化してしまうこと自体、危うい要素を多く含んでいると思ったからだ。
 「わたしの名前はスージー、殺されてしまった73年12月6日の時点で、わたしは14歳だった・・・・」と始まるこの本は、幼くして殺されてしまった少女の“残された家族の葛藤と崩壊”、そして“彼女の友達らの成長(青春)物語”それに“犯人の逃避行”という3つのドラマが並行して描かれる。この本のポイントは、物語は殺人事件をスタートにそこから10年近くにも及ぶこと。そしてその間ずっと殺された少女が主人公で、周りが大人になっていく中、決して成長することのない少女の1人称で語られるということだ。残虐な事件とは裏腹に、まだあどけない語り口で、自分を忘れられず辛い思いをする家族や友人を気遣ってばかりの主人公スージー。読み進めば進むほどに“切なさ”や“悲しみ”は増すばかりなのだが、全てを包み込む奇跡的ともいえるラストに読者は救われる・・・・これこそ“映画化不可能”ではないだろうか?要は、読者に委ねられた“スージー”の存在と、終盤の大事なシーンとなる生前の恋人との出来事を映像化してしまっては、原作の持つ世界観が損なわれてしまうような気がしたのだ。
 僕は映画も活字も大好きなのだけど、基本的に“映画の原作本”というのは読まないことにしている。が、アリス・シーボルトの「ラブリー・ボーン」は、ピーター・ジャクソン監督で映画化が決まったという情報を既に知っていながら手に取った自分的には数少ない“例外”で、その理由は「世界で1000万部以上売れている」という実にミーハーな興味本位からであった。本当は僕だって「誰も知らない素晴らしい本を発掘して他人に薦める」くらいのカッコ良いことをやってみたいのだが、根がミーハーなのでやはり“売れているモノ”に目が行ってしまうのだ(結果としてそれがハズレの少ないことも知っているし)。ちょうど村上春樹の「1Q84」を読み終えた頃で「次に何を読もうか?」と探している時に、1000万部以上売れている本があると知ったので('09年夏当時の話なので今現在は何部なのかは分からないが)、断然興味を持ち本屋に走ったのだった。当時“世界のハルキ”の著書である「1Q84」が2巻合わせて100万部突破!と世間を騒がせていたので、単にその10倍も売っている、しかも(僕にとって)全く聞いたこともない作者の本ってのはどんなだ?と思ったわけだ。
 ピーター・ジャクソン監督と言えば、最近では『ロード・オブ・ザ・リング』や『キングコング』といった超大作監督のイメージが付いているが、最新作『ラブリーボーン』は以前の『乙女の祈り』に近いかもしれない(大金を掛け、CGを駆使した『乙女の祈り』といったところだろうか・・・・)。正直、原作ファンにとっては意見の分かれるところだろうが、それでも、この大ベストセラーを映画化するに当たり『ロード・オブ~』と『乙女の~』を撮れるピーター・ジャクソン監督は現在考えられる限り1番の適任者だろう。原作ファンの方も揚げ足を捕ることなく純粋に1本の映画として観て欲しい。コレは原作から逸れること無く、とても温かく素敵なファンタジー映画なのだと気付くから。

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