ゴールデンスランバー

 前回の『ラブリーボーン』の時にも書いたが、僕は基本的に映画の原作本というものを読まないようにしていて、その逆に、読んだ本の“映画化”もなるだけ観ないことにしている。映画も活字も大好きなので、同作品としての双方の関係やその出来には物凄く興味はあるのだけど・・・・。「何故か?」と訊かれても正直、僕には質問者を納得させられるほど明確な理由となる答えを持っていない。強いて言えば、僕は映画に対しても本に対しても、鑑賞後(読書後)に自分なりの感想や世界観を確立させて何かしら1つの“答え”というものを勝手に作ってしまうので、後から入ってくる“もう片方”の作品に対し、揚げ足ばかり捕ってしまうのだ。それが自分でもイヤだから避けているわけで・・・・コレはもう単に“偏見”と“わがまま”なのだろう。
 伊坂幸太郎は大好きな作家だけど、そういった理由から僕はこの人の“映画化作品”は殆ど観ていない。彼の小説はまるで映画を観ているような、映画の脚本を読んでいるような、もっと言えば、始めから映像化を前提に書かれているのでは?と思うような作風ばかりなので、これまでの作品の多くが映像化されているのも納得できるのだが(映像化し難いものと言えば“喋る案山子”が要となる『オーデュボンの祈り』くらいだろうか・・・)。本人曰く「映画のような小説だったらビデオを観れば済むのだから、小説でしか味わえない物語、文章でしか表現できない映像よりも映像らしい世界を創っていきたい」(「ラッシュライフ」文庫本・解説より)だそうだ。一方、前回“映像化不可能”だと書いた「ラブリー・ボーン」などは、ある意味、始めから読者のミスリードを前提に読ませていくところがあって(ミスリードがベースになっているというのも矛盾していておかしな表現なのだが、なにしろ主人公は最初から死んでいるのだから・・・・)ココには活字でしか味わえないトリックが存在する。極論かもしれないが、例えば道尾秀介の「向日葵の咲かない夏」を映像化したら本来の作品の意図から外れ駄作になることは容易に想像出来るし・・・って言うか、そもそも映像化なんかしてはいけないのでは?とすら思うのだ(逆に“映像”を逆手に取った『ユージュアル・サスペクツ』や『シックス・センス』のようなパターンもあるが・・・・)。伊坂幸太郎の原作というのは、コレと真逆にある“映画化し易い”方の極例だと、思う。
 伊坂幸太郎の映画化で唯一観たのが『アヒルと鴨のコインロッカー』なのだが、コレはもう文句無く素晴らしい映画だった。ボブ・ディランの「風に吹かれて」と日本人の映像とがあれだけ切なくマッチするなんて想像も出来なかったし。で、僕的にこの『アヒルと鴨~』は邦画で1~2位を争うほど大好きな映画だ。その中村義洋が監督した『フィッシュストーリー』に続く3本目の伊坂作品の映画化がこの『ゴールデンスランバー』となる。伊坂幸太郎という作家は、音楽の持つ不思議な力を知っている(信じている)のだろうと思う。音楽は、世界は救えないにしても、1人の人間を勇気付けられるということは確信しているのだ。だから彼の中の登場人物は度々音楽に救われる。この“人と音楽の関係”がたまらなく好きだ。僕は、ガンズの「Sweet Child O'Mine」のイントロと、「We are the world」のヒューイ・ルイスからシンディ・ローパーに繋がるパート、そしてビートルズのメドレーで「Golden Slumbers」の正にこの歌詞を歌うポールの声を、独りで(大音量で)聴くともう無条件で泣けてしまう。何度聴いても涙が出る。まるで僕の頭の中に“泣きスイッチ”というものがあって、この3曲がそのスイッチに違いないと思っているくらいに。
 その『ゴールデンスランバー』をタイトルにした本作は、首相暗殺の濡れ衣を着せられた青年の数日間が描かれるのだが、“首相暗殺”と言っても、政治が絡んだような複雑な部分は全くなく、ごく普通の生活を送っていた男が突如陥れられた罠の謎解きと逃避行がスリリングに描かれている。そして、その根底にあるのが“人との信頼関係”で、コレが1番の(泣きの)ポイントになっているのだ。僕が、伊坂作品で個人的に1番好きな『グラスホッパー』の映画化も既に控えているらしいが、現時点での集大成とも云えるこの『ゴールデンスランバー』は伊坂幸太郎の世界を存分に味わえる1本だ。邦画では近年稀にみるくらいに、しっかりと中身の詰まった大娯楽作品。必見である。

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