人間失格

 「ライ麦畑でつかまえて」のJ.D.サリンジャーが亡くなったそうだ。って言うか、正直この作者がまだ生きていたってことに驚いた。この究極の“青春物語”は勿論僕も読んだことがあるにはあるのだが、世間が云うような程の衝撃は受けなかったのも本音である。それもそのはず(自己弁護のようだが)、僕が初めて読んだのは既に80年代に入ってからのことで。文学史上「初めてココまで思春期の葛藤を生々しく描いた」と云われるこの本が登場したのは51年。だからこそ、これほどまでに伝説的作品になったのだろうし、僕が読んだ時点ではもう既にそれはベーシックな表現方法にすらなっていたのだから。
 そしてココ日本ではそれと同様の位置付けなのでは?と、個人的に思っているのが太宰治の「人間失格」。しかもそれは「ライ麦畑~」よりも前の、48年に世に出た作品なのだ。じゃあ、この本がこの手の青春文学の原点かと云えば、(コレは沢山の意見があるのだろうが)個人的にはそうでもなく、あくまで僕にとってのそれは、夏目漱石の「こころ」なのである。何しろコレは大正3年、1914年の本なのだから!正直、この主人公が“先生”からの遺書を読んだ後、父親の死に際も省みずに汽車に飛び乗った後・・・・で、どうなった!?という“投げっ放し感”もあるにはあるのだが、この恋愛物語は、どれだけ多くの映画や本を経験しても、それは僕の中で究極で不偏的なものなのだ。付け加えるならば、この「こころ」の不偏性は、先生の遺書の中での言葉が「君は不思議に思うだろうが、私の時代ではそれが当たり前だったのだ」とか「君はこの恋の発展をもどかしく思うだろうが、私の世代はそういうものだった」とかいった表現で、それはどれだけ世代を超えても通用するある種の“逃げ道”であり、それが永遠のリアル性をもたらしているのだとも思うのだが。
 しかし、そもそも大正時代に書かれた「こころ」と、昭和の戦後に書かれた「人間失格」を同じ土俵に挙げて考えること自体おかしな話なのかもしれないのだが、何故だか僕にとってこの2冊はずっと同じだった。正直言うとそれは今でも僕の中で同じなのである。それは何故だろうか?と考えたとき、「両方とも、主人公が自殺をしているからだ」とすぐに思ったのだが、原稿を書くに当たって改めて考えると、確か両方共、主人公は自殺などしていなかったはず・・・・・多分。「人間失格」は主人公ではなく、この本を書いた直後の太宰治自身が入水自殺(本の中でも入水自殺未遂が出てきていて、それと被るのだ)をしていて、一方、「こころ」では、主人公ではなく、“先生”と呼ばれる人が自殺をするのだった、と思う。・・・・・それはそうと、まさかこの「人間失格」が映画化になるとは!?である。わずか150頁足らずのこの原作は、言ってしまえば“ドラッグと酒と女”のダークな話であり、ある種、精神論の堂々巡りのような部分がある上に、更に主人公はそこから立ち上がることなく終わってしまうので、読後はとても陰鬱な印象すら残すものであるから。決して、明るくも楽しくも無いこの原作を今の世に映画化して若い子らが観たとして・・・・どうなのであろうか?と、思うと同時に、そう言えば昔『トレインスポッティング』を初めて観た時に「コレって、英国版「人間失格」じゃん!」と感じたのを思い出した。とても上品で綺麗な映像と音楽によって、新たな命を吹き込まれた『人間失格』。それは僕の想像を遥かに超えた作品であった。そうだ、今こそ観るべき作品なのかもしれない。人によっては、全然理解出来ない「こんな人もいるんだなぁ・・・・」かもしれないし、またある人にとっては酷く自分自身と被り息苦しさすら感じるかもしれない。先にも書いたように、決して明るくも楽しくも無い物語であるかもしれないが、ここに込められている思い、感情、判断といったようなものの全ては(世代や年代を超えて)人が生きていく上でとても大事なことなのだ。
 ともすれば忘れかけていた、いや、麻痺しかけていた大事な部分に問いかけてくる物語。今回の映画化をきっかけにブックカバーなども新調されたりして最近改めて書店でこの文庫本をよく見かけるが、その度に終盤の「もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました」「まさに癈人。人間失格。」という精神病院から語られる一文を思い出し、背筋のぞっとするような、切なさと悲しみを伴う恐怖を感じてしまう。もしも、まだ原作を読んだことのない人が居れば、この機会に是非とも原作も併せて読んでみてはどうだろうか?

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