ヒア アフター

 ゴールデンレトリバーなのに和風な“リキ”と名付けられた外来種の大型犬は生後40日の幼犬の頃から我が家で生活していて、うちの長男が生まれたときにはもう2歳になっていた。なので長男にとっては、そのまた更に兄貴的な存在として共に育ってきたのだ。背中に跨った子どもを落とさないように、そぉ~と歩いていたリキを思い出す。そのリキが病気で死んだのは2年前、リキが6歳、長男が4歳の時だった。既に自分の親父を7年前に亡くしている僕にとっては、いくら愛犬とは云えその際の悲しみには敵わないだろうと高を括っていたのだけど。4歳になる息子にとっては初めての“お別れ”である。生まれた時から一緒に育ってきたリキとのお別れ。「リキは天国に行ったからもう会えないんだよ、天国という所は死んでから行く場所なんだ」と言うと「じゃあ、僕も死んで天国にリキを迎えに行ってくる」と泣きじゃくる子に、“その事”をどう理解させるか?ってのは、ある意味僕にとって自身の親父のそれを超える試練であった。
 “人は死んだらどうなるのだろう”、“死んでしまった人とはもう会えないのか”という、実に原点的なというか、ある意味子ども染みているとも言える疑問をテーマにした映画『ヒアアフター』。“映画の神様”と云われるクリント・イーストウッドの最新作である。いや本当に神の域まで達した感があるくらいここ最近の彼の映画は神懸かっていると思う。03年の『ミスティック・リバー』辺りからだろうか?80歳を過ぎて尚、また自身の全盛期が来るというのはとにかく凄い!イーストウッドについては前作『インビクタス 負けざる者たち』の時にもココ「Go to Theaters」で散々書いたので今回は触れないでおこうかとも思ったのだが、やはりこの映画が“クリント・イーストウッドの映画”だということは念を押しておきたいし、彼については何度書いても書き足りることなど無いと思ったりもするのだ。
 パリで生活するジャーナリストのマリー。彼女は恋人と一緒に行ったバカンス先の東南アジアで津波にのまれ、一時心肺停止状態という正に“死にかけた”体験を持ち、以来その時のトラウマに苛まれている。冒頭わずか10分足らず後に描かれるスマトラ島沖の大津波の映像はとにかく圧巻で「今回はいきなり飛ばしてくるなぁ・・・・」という感じである。この手の映像はこれまで多くのパニック映画で観てきたのだけど、それらとは明らかに一線を画す映像。流石イーストウッド!パニック映画特有の楽しみ方なんか全く出来ず、ただただ痛く辛い映像。(当たり前なのだけど)泳げればいいなんてレベルでは無論無く、車や瓦礫が怒涛のように流れてくる中にただ一緒に飲み込まれるだけ。幸せなひと時の中でも突如訪れるかもしれない悲劇と、自身の生き方なんかとは全く関係ない次元での“人間の無力さ”を思い知らされる恐怖体験。実はこの時点でもう僕ら観客は、イーストウッドのペースに完全に嵌められてその後のエピソードを観ることになるのである。一方、かつて“霊能力者”として活躍しながらも、死者との対話に疲れ人生を変えるべくサンフランシスコの工場で勤めながら静かに暮らしているジョージ。そしてもう1つのエピソードが、この映画の最大の肝となるマーカス少年である。彼はロンドンで母親と双子の兄と暮らしていたのだが、ある日突然交通事故で兄を亡くし、また母親とも離れて里親の元で暮らすことに。どうしても死んだ兄ともう1度話したいと切望しながら日々を送っていたある日、彼は霊能力者のジョージと出会うのである。それぞれ“死”に直面した3人が運命のように出会い、“死”を乗り越えることで“生きる”喜びを見つけていく。誰もがいつか直面する“愛する者の死”、そして必ず訪れる“自分の死”に真正面から向き合った物語だ。「死後の世界があるかどうか、真実は誰にも分からない。ただ、人は誰も与えられた人生を精一杯生きるべきだと、僕は常に信じている」というクリント・イーストウッドは今回の映画化に適任・・・・っていうか、この物語を最大限に描くには彼しかいないだろう。巨匠スピルバーグがイーストウッドに監督を依頼したってのは実に納得のいくエピソードだ。
 僕は、冒頭のスマトラ沖の大地震のシーンからずっと涙目であったにも関わらず、鼻をすするのは恥ずかしくかなり堪えていたのだけど、マーカス少年が双子のお兄さんと接触するシーンを山場に、もうそんな体裁なんかどうでもよくなってすっかり号泣であった。だってコレは反則だろう?クリント・イーストウッドの映画はある意味反則なのだと思う。観客に対し挑戦的とも云える程剥き出しの感情をこれほど突き付けてくるってのは独特の彼の作風なのだろうけど、それにしても覚悟の要る映画である。まだ2月だけど、僕にとって“今年1番の映画”だと断言出来る傑作。必見である。

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