グランド・マスター

 学生時代の僕は、勉強も運動もダメで“真面目”でもない上に、かと言って“ヤンキー”にもなりきれない実に中途半端な“ヘタレ”であった。そのくせ何度も警察にお世話になったりして、しかもそれがちょっと自慢という・・・・もしも今の僕がタイムマシーンであの頃の自分に会うことができたなら、もう間違いなくギッタンギッタンのメッタんメッタんにしてやりたいような“クソガキ”だったはずだ。そんな感じだったので、同じく中途半端な“ザコキャラ”にはよく喧嘩を売られたものである。きっと同じ匂いを感じ「こいつなら勝てるかも」と挑んできたのだろう。なのだけど、同級生・先輩問わず、不思議と“ヤンキー大物”たちには仲良くして貰ったのを覚えている。朝、待ち合わせをして一緒に登校したり、時には「ココ、思いっ切りパンチしてみて」と言われたんで言う通りにすると「痛ててぇ~!!!」と大袈裟に痛がられ教室中が注目してシーン・・・・となってみたり。そうなると「お前、なんなんだ?◯◯と友だちかよ?」と、次第に誰も僕に喧嘩を売ってこなくなるもので。そして20年以上ぶりに去年、七ツ島のサンライフプールで学生時代の“ヤンキー大物”の1人、どころか1番の大物である同級生に会った。彼は相変わらず近寄り難いオーラを出しつつもうちの子と同じ歳くらいであろう自身の娘をニコやかに見つめていて思わず「おっ!」と近づいてみたのだけど、一瞬それら全てが走馬灯のように蘇り体が固まってしまい一言も声を掛けられないままであった。でもきっと・・・・いや、絶対に彼はオレに気付いていたはずだ。オレが見ているのを知っていて「そっちが気が向いたらいつでも話しかけてこい」と敢えて無防備で自分の娘を見つめていた、そんな気がするのだ。色んな思いを抱えた僕は、またしても彼に支えられてしまった。今年の夏、もしも彼にまた会えたなら今度こそ色んな話をしてみたいと思う。そして「有難うな」と今だから言える言葉を伝えたい。でもやっぱりお互い目すら合わさないかもしれないけれど・・・・。

 「中国と言えば?」の1つである“カンフー”。しかも巨大な中国大陸の北と南では一言で“カンフー”と言っても全く異なるのだそうで、更に!その北と南の中でも数々の流派がありそれぞれに必殺の「奥義」を秘めていて・・・・で、結局はどこの流派が?どこの誰が1番強いのだ?ってのを決めるところからこの『グランド・マスター』は始まる。そう、この映画は高橋ヒロシの「クローズ」「ワースト」、正にその世界観そのものなのだな。同じ学校内(同流派)で誰が1番強いんだ?・・・・でも隣の学校(流派)にはもっと強いヤツがいるんだってよ!っていうか、隣町には伝説級の奴がいるそうだぜ!・・・・という。しかも“勝負”と言っても何処かの会場で観客がいてやるワケじゃなく、路上だったり、店内だったり、駅のホームだったり、なのでいわゆる“喧嘩”なワケ。複数同士の格闘から複数対一人、そしてタイマン・・・・同じ“喧嘩”には違いないのだけどその勝ち方、負け方とかの魅せ方がとにかく上手い!「静」と「動」の両極端なバランスも絶妙だし、見せたいとこだけをピンポイントで見せる1コマ1コマの映像も秀逸!そしてド派手(且つ、全く無意味!)な“大物”の登場シーン!に、更には「・・・・こいつは強ぇ!」とか「これだけ動いて息一つ乱れてねぇ・・・・」とかいった“心の声”を台詞にせずに“目”とか“間”で伝える演出!もうホント「高橋ヒロシ」の世界観そのものだ。

 物語。舞台は1936年の中国。北の最高峰と謳われるグランドマスター(番長)“ゴン・パオセン”に南からの使者“イップ・マン”が挑み、パオセンは「お前に後を託す」とイップ・マンを認める。が、武闘派女子校の番長を張っていたパオセンの娘ルオメイは「ふざけんな!」とイップ・マンにタイマンでの勝負を挑み、イップ・マン、密かに最初で最後の敗北を経験。そんなある日、パオセン番長の一番弟子であったマーサンが意見の相違から師匠であるパオセンを“喧嘩”で殺害。当然のごとくスケバン娘ルオメイは父の復讐の為にマーサンを「絶対、殺ったるで!」という・・・・まぁ、簡単に言えばこんな話だ。トニー・レオン演じるイップ・マンは、かのブルース・リーの“師匠”ということで超有名人なのだそうだけど、僕はこの映画で彼の存在を初めて知った。こんなに凄い人がいたのだなぁ・・・・。主人公は間違いなくイップ・マンであり、坊屋春道であり、月島花であることには間違いないのだけど、その人物は2~3割しか登場せず、別人物の物語が軸に描かれているってのも「高橋ヒロシ」作に似ていないだろうか・・・・そう言えば鳳仙のようなスキンヘッド集団も出てきたし(笑)。

 冒頭で書いた学生時代のエピソード然り、“男”ってどうしていつまで経ってもこんな「ヤンキー」とか「格闘」とかしょーもないような事が好きなの?と女性陣から聞こえてきそうだが、ゴメンだけど“男”ってのはそんなもんなのだからしょうがない。例えば「七福神」の中で独りだけ怒った顔をしている毘沙門天(多聞天)。元々は異教徒でありながらもその圧倒的な強さから仏教の守護神となり、更にはその“四天王”と呼ばれる4人の守護神のリーダーとも云われる存在の強面で屈強な男(神)を世の“男”は本能で「カッコ良い」と思ってしまうのと同じように・・・・もっと掘り下げれば、全ての“男の子”がヒーローものを「カッコ良い」と憧れるように、男ってのはとにかく「強い」ものが好きなのだ。本当に強い男ってのは「独りでも強い」という単純な発想で、そこには理屈や理由などはない。たま~に「俺、集団行動が苦手」とか「おいら、社交的になれない」とか堂々とカミングアウト気分で言い放っている男子を見かけるが、それを盾にしちゃダメだろう、といつも思う。だって、そんなの“男”なら誰だってそうだろうから。当たり前じゃん!“男”だもん。「アレ?もしかして自分だけそうだと思ってた?!」といちいちビックリしてみたい。「お前は良いよね、社交的で誰とでも仲良くできるから」と言われたことがあるけど、その時は流石に心底「バカじゃないか、こいつ」と思った。そんなワケないだろ。そこをみんな「仲間のため」「家族のため」に合わせながら頑張ってるんだよ、と言いたかったけど、それを言ったところでどうせ「それが出来るから偉いよ」とかの応えが予想できて言う気も失せたが。ついでに言うならば「昔はヤンチャだったけど・・・・」と“歳取る毎に丸くなっていく”っていう、アレも嘘だ。歳を重ねる毎に「お前も同じなんだな」ということを、男ならば誰もがそうなんだな、ということを気付き学んでいるだけ。もっと言えば「面倒臭ぇ、ま、楽しくやるか」と争いを避けているだけ。お互いの為に。男は歳重ねれば重ねるほどに背負うものやら守らなければいけないものがどんどん増えていくのだから、それに反比例して“本能”が丸くなっていくワケがない。おっさんをナメんな!ということだな。

 イップ・マンの独白「40歳までは平和だった・・・・」とある通り、物語は彼が40歳以降の時期に比重が置かれている。映画界に於ける「おっさんパワー」(スタローンやブルース・ウィリス、シュワルツェネッガーら)を話し出せば更に長くなりそうなのでまた今度にするけど、中国武術・カンフー等、こういう“受け継がれていく”ものに関しては、年配の人こそ大御所であるってことが凄いと思う。若いもんに世代交代ってのも良いけど、やっぱ「簡単に世代交代はさせない」という、それこそ“本物の男”だ!と。かと言って、当然ながらただ強いだけではダメなワケで・・・・(そう言えば「ワースト」の中でも誰かが「『オレは喧嘩が強いんだ』って言っても社会に出れば『へ~、だから?』って、それで終わりだぜ」とか言ってたし)「男のカッコ良さ」てのは多方面であり色んな主観性があるのだけど、しかしながら僕はこの『グランドマスター』の登場人物の誰にも共感できなかった上に伝説の人物であるイップ・マンにすら尊敬の念を抱けなかった。・・・・ということが、個人的には実はコレこそが映画のキモであるような気もするのだけどどうだろう?ラストのブルース・リーの「カンフーに生きるのではなく、人として生きなければいけない」という言葉が正に反面教師のそれを物語っていたような。ま、でも何だかんだ言っても結局はこの映画の最大の魅力は「ウォン・カーウァイ最新作!」ということに尽きる。全篇に渡ってコッテコテの喧嘩・武闘派アクション映画であるにも関わらず、観終わった後の余韻は『花様年華』(00年)であり『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(07年)であり『恋する惑星』(94年)のそれと同じという・・・・コレは凄い!正に“ウォン・カーウァイ映画”!としか言い様がないのだから。一般的に言われているように、どんなジャンルを撮っても「◯◯(監督名)映画」となり、その監督名だけで客が呼べるってのがその条件だとするならば、ウォン・カーウァイ、この映画で遂に“巨匠”の1人となったのだ。

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