ゴーン・ガール

 5回目の結婚記念日に妻“エイミー”が失踪し「愛する妻を探してくれ」と悲痛に訴える夫“ニック”。リビングには争った形跡や血痕まで見つかり明らかに事件性を帯びてくるのだけど、調べれば調べるほど夫である“ニック”が怪しくなっていき・・・・ニックは本当に犯人なのか?エイミーの安否は?・・・・という。なるだけ前情報無しで観た方が楽しめると思うのでコレくらいに留めておきたいのだけど、なにせアメリカだけで600万部を超える大ベストセラーとなったギリアン・フリンによる同名小説の映画化作なので、その気になれば粗筋どころかオチも含めた詳細がネットで見れてしまうワケで・・・・。ま、でも出来るだけ情報無しで純粋に楽しんで頂きたい。とんでもなく面白い映画なので。

 監督はデヴィッド・フィンチャー。「やっぱ、デヴィッド・フィンチャー、すげ~・・・・」と思わずにはいられない、正に会心の一撃という感じじゃないだろうか。最近では、ハーバード大学在学中に「フェイスブック」を立ち上げたマーク・ザッカーバーグの半生を描いた『ソーシャル・ネットワーク』(10年)とか、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットの『ベンジャミン・バトン』(08年)だとかが彼の代表作イメージなのだろうけど、やっぱ僕ら世代には未だ『セブン』(95年)、『ゲーム』(97年)、『ファイト・クラブ』(99年)の初期3部作だ(92年のハリウッドデビュー作『エイリアン3』は無かったことにして・・・・)。なので11年の『ドラゴン・タトゥーの女』(そう言えばコレもベストセラー小説が原作)は「そうそう!こんなデヴィッド・フィンチャーが観たかった!!」と大喜びだったのだけど、続編である『ミレニアム2 火と戯れる女』の映画化が暗礁に乗り上げ・・・・特に僕はスティーグ・ラーソンの原作「ミレニアム・シリーズ」の大ファンだっただけにその残念度も大きく、「あぁ~、デヴィッド・フィンチャーのブラックなユーモア満載の暗い映画観てぇ~・・・・それも、色彩を極力抑えたダークトーンの映像で」と渇望する毎日を送っていたのだけど、本作『ゴーン・ガール』でその欲望はすっかり満たされてしまった。どころか、もう暫くはいい。もっとスッキリ楽しく生きていたいから。

 原作は上下巻に分けられた2巻組なのだけど、合わせても800頁足らずなのでそもそもコレを2冊に分ける必要があったのか?僕的にはどうにも「2冊分売って金儲けしようと思ってんだろ?」という邪感が否めなかったのは正直なとこで・・・。が、読み始めてみると「どういうことだ?」「マジかよ?!」という先を読み進めたい気持ちと物語のスピーディーな展開にあっと言う間にハマってしまった(最近の洋書だとピエール・ルメートルの「その女 アレックス」の次くらいに面白かった!)。原作は、夫“ニック”の立場として、彼の妻“エイミー”が失踪したその日からの物語が一人称で主観的に語られるのだけど、それと交互にエイミーの日記が挟まれ、それらが交互に繰り広げれられる、という構成が最大のポイントだ。エイミーの日記は当然ながら彼女側の“主観的な”物語なワケなので、この2つの視点から描かれるそれぞれの“言い分”が交差していくにつれ、どんどん深まる謎とそれと同時に次々と解決していく謎・・・・特に下巻からの展開が物凄くスピーディーで面白い!(例え“出来心”でもまだ上巻を読み終えていないにも関わらず下巻の冒頭を決して読んではいけない!上巻の全ての謎が下巻のわずか2~3行で解決しているので)とにかく、この2つの“主観”というか“言い分”の絡みってのが原作の一番の売りであったワケなので、コレをどう映像化するのか?と・・・・当然ながらニックの物語をベースにエイミーの日記部分がフラッシュ・バックとして描かれるのだろうなぁ、という予想はその通りだったにしても、映画化はなんとエイミーの主観のみで描かれているのだ。なるほど、こうきたか?!って感じだ。そうすることで物語をよりシンプルに、且つ、観客の謎と緊張感を更に高めることにも成功しているのだな。こんなに大きな変更点がありながらも原作通りに物語が語られているって凄いなぁ~と思ったら映画化の脚本も原作者であるギリアン・フリンが担当しているのだそう。もしもまだ原作を未読の方は、映画を観た後に読むとニックの“心の声”も聞けてより物語の深さを味わえ楽しめると思う。それにしても、例えどちらかの主観で描くにしても普通はニック側だろ?って思うのはもしかしたら僕が男だからだろうか?確かに、この映画を“男”の立場で観るか?“女”の立場で観るか?によってその印象は物凄く変わってくるのは間違いないだろう。もしくは“怖い”と感じるか?“滑稽”だと笑えるか?によっても。デート映画としては最悪かもしれないが(笑)。

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